■第六話「ラムネの沿革について」

 3月1日号で近藤毅夫氏が「炭酸飲料よもやまの話」の中で「ラムネびん」のことが書かれているので、今回はラムネの沿革について書いてみたい。

 1.ペルリとラムネ

 我が国に初めて炭酸飲料(ラムネ)が伝えられたのは、1853年(嘉永6年)ペルリ提督のひきいる米艦3隻が浦賀に来航したとき清涼飲料水の一部として炭酸飲料(ラムネ)を積んできて、幕府の役人にこれを飲ませたところ、「ポン」の音に驚くとともにそのうまさに驚嘆したことだろう。炭酸ガスを含有した飲料なので栓を抜いたさいに「ポン」と音を立てることを特徴とした飲料が、我が国に初めて入ってきたのは事実とされている。

 このときの炭酸飲料(ラムネ)が詰められていた「びん」がハミルトンボトル(我が国では「キュウリびん」といった。)で口栓はコルクで、これを針金でびんの首に結えつけたものであった。

 1860年(万延元年)に英国船によって長崎に機材等を運搬し、外人の手で製造され、長崎に在住した外国人の間で愛飲されたといわれている。びんは英国人のW.Fハミルトンの考案したボトル(キュウリびん)に詰められ栓を抜いたときに「ポン」という音が出るところから「ポン水」といわれ、また、びんは「トンゴびん」といわれていたという。

 2.長崎で国産最初のラムネ製造者誕生か

 1865年(慶応元年)長崎の藤瀬半兵衛氏が外国人からレモネード(Lemonade)の製法を学び「レモン水」と名づけて販売したのが国産第一号であろうという説がある。「レモン水」とか「ポン水」の名称は、ついにつかわれずに「ラムネ」といった。ラムネという名称であるが、外国人がこの飲料水のことを「レモネード」と呼んでおり、英語読みなので語尾が消えて「レ」が「ラ」の発音に聞えて「ラムネ」になったといわれる。藤瀬半兵衛氏が国産最初の製造者の元祖だろうといわれているが、当時の交通、音信等の事情からみて確かな記録はない。

 3.ラムネは長崎→神戸→横浜か

 和田伊輔氏は「業界回顧史」のなかで、次のように書いている。「我が国で一番古いラムネの製造販売者は、長崎へ来たオランダ人であるといわれているが、私の知る限りにおいては、神戸のシーム十八番ラムネであろうと思う(注:明治17、8年以前の頃と記している)。これは神戸居留地十八番館に居たシーム商会が製造したので、十八番という名称をレッテル(注:ヒシ形に帆前船印)に附したのであったが、このラムネが非常に優良なもので、関西一帯に愛飲されるようになった。…中略・・・「なお、当時のラムネ壜は総て英国から輸入されたもので殆んど白色の玉壜であった」という。当時、横浜におけるラムネ製造の元祖は後藤という人であった。このようにラムネは、はじめ長崎に入り神戸に伝わった。そして神戸よりも少しおくれて横浜ではじまったようで、製造時代の順序は長崎→神戸→横浜であろう。また、1884年(明治17年)には、大阪で初めてラムネ製造を始めたのは洋酒の製造に従事していた橋本清三郎氏であったといわれる。

 4.玉ラムネびん詰の流行

 キュウリびんがすたれて「玉ラムネびん詰」が流行しだしたのは1887年(明治20年)からで玉ラムネびんが多量に輸入されている。
 1888年(明治21年頃)頃には大阪酒造組合が支店を東京日本橋浜町に設けて玉ラムネびんを使いだしたのが始まりである。1890年(明治23年)には東京第一を誇っていた東京本所の洋水社が玉ラムネびん詰の製造販売を行っており、さらに東京全市にわたって玉ラムネびん詰が売り出され次第に各地に広がっていった。

 5.コレラの大流行でラムネが売れた

 1886年(明治19年)はラムネ屋にとっては忘れることのできない印象を残した年であった。辻新太郎氏は「業界回顧史」で次のように書いている。「その夏は非常な熱暑に加えて晴天が続き、東京附近にはコレラの大流行を来たし、東京市内だけでも10万人の死亡者があったといわれているほどであった。この年は7月10日から8月24日まで、晴天続きで日中は華氏100度(注:摂氏38度)以上に昇る日が多かった。…(中略)…したがってラムネの売れ行きは大したものだった。とくに当時発行されていた「東京横浜毎日新聞」に「ガスを含有している飲料を用いると、恐るべきコレラ病に犯されることがない。」という記事が掲載されてから一層売れ行きが盛んになって、ラムネ屋は毎日徹夜で仕事をしても間に合わないほどの状態であった。…(中略)…当時のラムネは冬になると絶体といってよいほど売れなかった。それで余儀なくラムネ屋は玉突屋や西洋料理店などに競って売りこんだ。そのため先方からの注文による飲み物を拵えて売るという有様であった。」という。

 6.ラムネの原料と販路

 当時のラムネの原料は一律ではなかったが液化炭酸ガスのない時代には、炭酸ガスは炭酸石灰と硫酸を使用して「ガス」を発生させて使った。糖類は砂糖、酸味料はクエン酸、酒石酸、香料はレモンエッセンス、着色料には黄色料等が使われていたようである。
 また、販売地域は一般に遠方には売らない。ラムネは当時の製造能力は人手による半自動の製造、運搬手段は得意先を毎日配達夫が荷車に積んで廻ったという。その製造工場の地域で消費されたことは消費日数が短かい。したがって不良品のでる機会が少ない。
 それでも1900年(明治33年)公布された「清涼飲料水営業取締規則(2月15日号に掲載)第5条には製造業者の販売条件として8項目定められているが、特に(1)、(2)の沈澱、混濁、夾雑物の違反のために年々罰金を課せられる業者は非常な数に上ったという。

 7.玉ラムネびんには印

 玉ラムネびんを製壜会社で吹製するとき、ラムネびんには印(エンボス)を入れていた。これは印を入れるのが当然で、得意先、消費者にこのびんは「中味のみを売りびんは貸します」、びんは製造者の所有に属するため、紛失しないよう、他の会社のびんと間違わないように吹製の際に所有者の名称をびんに印(エンボス)を入れていた。びんはリターナブルびんであり、今日のようなびん保証金を預る記録はなかった。なお、余談ではあるが筆者が持っているラムネびんには東京清涼飲料水同業組合(明治43年設立(現東京都清飲協組)の印入りで胴は六角形で玉止めの凹みが二つの中玉ラムネ白色びん(160ml、重量448g)、また澤井商店の印入りは丸びんで玉止めの凹みが一つの小玉ラムネ青色びん(150ml、重量398g)であり、史実を物語る一端であろう。

 8.戦後、清涼飲料水の成分規格、製造基準の改正

 1900年(明治33年)6月制定された内務省令第30号「清涼飲料水営業取締規則は、1947年(昭和22年)に厚生省が創立、食品衛生法の公布に伴い1948年(昭和23年)7月「食品、添加物、器具及び容器包装の規格及び基準」が改正され、これに含められて内務省令は廃止された。

 (1)成分規格
    清涼飲料水又は保存飲料水は左の各号に該当するものであってはならない。
    1.混濁したもの
    2.沈でん物又は固形の異物あるもの
    3.遊離鉱酸を含有するもの
    4.砒素、アンチモン、鉛、亜鉛、銅、すずを含有するもの

   原材料として用いられた植物又は動物の組織成分に基因する混濁又は沈でん物で腐敗又は変敗に原因しない場合は1及び2の規定は連用しないと内務省令当時の取締りから現実的な内容に改正された。

 (2)製造基準
    炭酸を含有する清涼飲料水は、原水を95度で20分加熱し、若しくは3.0PPM以上のクロールを加えて殺菌し、又は細菌ろ過して用い、炭酸ガスの圧入は摂氏15度以下に保って充分にこれを行わなくてはならないと定められた。原水処理法三つのうち一つは行わなければならないので、炭酸飲料は加熱、クロール殺菌は不適切なので、素焼ろ過筒によるろ過機を使用をすればよい。しかし、当時は未設置の工場があり、製造を禁止されるのでろ過機の整備は急務であった。水道水、井水とも当時は水質が良く特に地方の中小製造業者はその必要がなかったのであろう。なお、用水の冷却方法は特に規定されていないが、摂氏15度以下に保つことのできる冷水装置を備えなければならなかったので相当の設備投資を必要とした。
    また、炭酸ガスの圧入は摂氏15度以下に保って充分これを行わなくてはならなかった。
    現在のような常温びん詰法、低炭酸飲料の製造ができるようになったのは1982年(昭和57年)2月、清涼飲料水の製造基準が改正されてからである。

    その頃の中小企業のラムネ製造方法の一端は、びんはブラシ洗びん機で洗い、さらに回転式の吹上洗びん機に差し込み洗びんし、びん詰機(2本~6本立)に右からびんをそう入し、一定量のシロップを注入、炭酸ガス水が注入され、内蔵されたガラス玉を炭酸ガスの圧力でロゴムに押し上げ栓をし左から製品を抜きとる方法であった。びん詰機は自動運転でもまさに入手に頼る生産方式であった。現在は洗びん機充てん機ともに全自動の機械で一貫生産方式になったことは昔日の感がある。

 9.砂糖と人工甘味料の併用を認める

 砂糖は統制品であり割当制の時代でもあった。割当られた砂糖の使用方法として人工甘味料を絶対に混入してはならなかった。これが1951年(昭和26年)3月(26食糧第1556号「食品」)食糧庁長官から知事に対し「飲料水製造用砂糖の使用方法について」により、割当の際に人工甘味料を混用せぬよう指示してあるが、今回連合軍総司令部の了解により、7割迄人工甘味料を併用して差支えない事となったから(砂糖3割使用を限度とする)この旨貴管下各業者に周知せられたい。との通知が出されている。

 10. 清涼飲料水の販売価格の統制

 清涼飲料水の販売価格は、物価庁において1949年年(昭和24年)5月1日(物価庁告示第271号)ラムネ1本の統制価格を次のとおり告示されている。

(1)ラムネ9勺5才(171ml)入り壜詰(中玉ラムネ)
   製造業者11円24銭、卸売業者12円24銭、小売業者14円30銭と定められた。
(2)ラムネ8勺(144ml)入り壜詰(小玉ラムネ)
   製造業者9円36銭、卸売業者10円36銭、小売業者12円40銭と定められた。
 これを最後に1950年(昭和25年)11月に統制価格は廃止され、業界を拘束していた免許制度も廃止されてようやく自由競争時代に入っていくのである。

 11.中小企業安定法第29条に基づくラムネの設備制限令令の発動

 戦後は、砂糖が統制されていたので甘味料としてサッカリン、ズルチンが使用されたが、甘いものに飢えていた人々は喜んで飲用していたのである。この時期に需要は急伸し、1953年(昭和28年)には戦前、戦後を通じてそのピークに達し82,805kl(小玉ラムネ126ml換算6億5,718万本)であった。
 1956年(昭和31年)には人工甘味料サイクラミン酸ナトリウム(チクロ)が食品添加物として使用許可されたが、これら人工甘味料に頼り砂糖が自由に使用できるようになっても良質のラムネに切り替える時期を失したことも年々下降線を深める原因となった。自由経済の結果は販売競争が起ることは当然の成行きであるが1950年(昭和25年)頃より、業者の乱立、販売競争が激化するとともにラムネ業界が需要の低迷と過当競争のため1954年(昭和29年)12月に全国清涼飲料調整組合連合会(現全国清涼飲料工業組合連合会)を設立し、炭酸飲料の出荷数量、販売方法、生産設備の制限に関する総合調整計画を実施した。また、1953年(昭和28年)8月中小企業安定法の業種指定を受け1956年(昭和31年)6月ラムネ製造業生産設備及び新設制限命令が発動された。

 この命令の要点は、
(1)組合員及び員外者にあっては登録のしていないラムネびん詰機を使用できないこと。
(2)組合員及び員外者はラムネびん詰機の新設はできない。
(3)登録済の機械の入替又は他から購入、借用は認められる。
 この命令は1969年(昭和44年)1月廃止されるまで12年7カ月にわたり実施した。既にこの制限命令が発動された1956年(昭和31年)にビール3社を含むサイダーの生産量は124,309klと上昇気流に乗っていた。

 12.ラムネの出荷数量の制限命令の発勤

 ラムネは1956年(昭和31年)には54,745klとピーク時の1953年(昭和28年)66.1%に低落していた。当時、ラムネ製造設備は安価で操業が簡単であり、少人数の家族労働だけで製造が可能であることから、生産設備の制限命令だけでは効果はなく零細企業特有の原価意識でくりひろげる過当競争から1959年(昭和34年)4月に中小企業団体の組織に関する法律に基づく、ラムネの出荷数量の制限命令が発動された。
 この命令は、組合員及び員外者、即ちラムネ製造者全部に対し四半期ごとに出荷数量の割当を行い調整証紙(左記参照)を附してないラムネを販売してはならないというもので、現在では考えられない施策であった。また、自主総合調整規程で生産者の販売価格の制限として中玉ラムネ(144ml)6円、小玉ラムネ(126ml)5円50銭、リベートの禁止等のカルテルを実施しラムネ業界の安定を図ったのである。しかし、この数量制限命令は、年々生産量が低下しその必要性はうすれて1968年(昭和43年)1月に廃止されるまで8年10ヶ月にわたり実施したのである。
 1967年(昭和42年)の生産量は34,000klとなり、出荷数量の制限を実施した1959年(昭和34年)の77.7%に減少していた。

 13.ヅルチン、チクロの使用禁止

 人工甘味料として長い間使用してきたサッカリンの使用制限、健康上の問題からヅルチンが1967年(昭和42年)6月に、さらにサイクラミン酸ナトリウム(チクロ)は添加物として不適当であるとして1969年(昭和44年)11月に使用禁止となった。清涼飲料業界は砂糖への切り替えも余儀なくされ、チクロに対して砂糖の原価は約10倍にもコストの面から割高となり、小売価格にも影響を与えることになった。

 13.ラムネの定義

 ラムネの出荷数量の制限命令の実施にあたって1959年(昭和34年)7月1日付(34農林経済局第2207号)で農林省経済局長名で長崎県浦上警察署長宛に「ラムネの定義について」の回答文の中で、ラムネとは「玉ラムネビンに詰められた炭酸ガス入り飲料」という解釈が出されている。

 14.中小の生産分野にラムネ等を宣言

 1977年(昭和52年)12月「中小企業の事業活動の機会の確保のための大企業者の事業活動の調整に関する法律」の主旨に則り、中小企業の特有とする生産分野の品種であることをラムネを含む5品目について大企業者の中小企業分野への参入をしないよう宣言した。
 その当時、缶飲料にラムネの名称を表示した企業が出現したので1978年(昭和53年)2月次のとおり決議している。
 ラムネとは、「玉入りびんに詰められた炭酸飲料である。缶その他の容器に詰められた炭酸飲料に「ラムネ」の表示を利用することは認めない。等3項目を決議して当該企業に申し入れ、ラムネ名称は取り止めとなった。

 このときラムネの定義について1978年(昭和53年)3月27日付で、特許庁審査第1部商標課長名で全清飲宛に「商標法施行規則別表29類中の「ラムネ」とあるのは「甘味、香料などを加えた水に炭酸ガスをとかし、びんにつめ、ガラス玉で密栓することを特徴とする清涼飲料水の一種として取り扱っているとの回答を得たのである。
 さらに1978年(昭和53年)5月4日付で公正取引委員会事務局取引部景品表示指導課長名で全清飲宛に「ラムネという名称は、玉詰びんに詰められた炭酸飲料について使用されてきたと理解している」との回答を得た。

 15.ラムネ製造も洗びん→充てんは一貫体制

 ラムネは玉入りびんのガラス玉を利用して密封するので洗びん及び液体を充てん後、びんを倒立させコンベア上に乗せることはむずかしいといわれていたが、現在では技術の進歩により自動洗びん機→自動充てん機に、この間を結ぶコンベア・システムで造られるようになった。
 しかし昔の形態のラムネびんは姿を消し、全自動製びんとなりロ部はプラスチックのものもあり、またPETボトルも登場するようになった。ラムネ業者も150~160企業といわれ、その生産量も16,000kl(8,000万本)程度といわれている。

 16.ラムネは1959年(昭和34)に無税

 玉ラムネは1926年(大正15年)以降清涼飲料水税が課せられてきたが、1950年(昭和25年)以降は物品税の課税対象に変更された。玉ラムネは本来し好品の一種であるといっても、その消費が主として子供であることと1本当りの単価が安いことなどから、物品税の軽減問題が起る場合には必ずといってよいほどとりあげられてきた。
 その消費支出弾力性は低い等の事情が考慮され課税物品から33年ぶりに除外された。しかし、現在は消費税として5%が課税されていることはいうまでもない。

 参考資料:業界回顧史(1935年(昭和10年)東京都清涼飲料水同業組合発行
 出典:清飲通信(平成14年3月15日号~4月1日号に掲載)
 執筆者:堀部 義巳氏(一般財団法人日本清涼飲料検査協会相談役)


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